ダーク ピアニスト
〜練習曲7 復讐の翼〜

Part 3 / 3


 それから俄かに動きが慌しくなった。ギルフォートは大きな機会を何台も持ち込んで一晩中コンピュータを操作していたし、時々ブライアンが何かを届けに来たり、チャーリーや他の何人かの学生が呼ばれて出入りしたりしていた。が、その間ルビーは一人枠の外に置かれてつまらなそうだった。

「あれ? どうした、ルビー。しけた顔してさ」
ブライアンが訊いた。
「だって、みんな忙しいからって僕と遊んでくれないの。ギルは危ないから一人で外に行っちゃいけないって言うし……」
「ハハハ。奴も随分心配性なんだな」
「心配?」
「ああ。ギルは君が余程大事だと見える」
「大事?」
「そうさ。君だって一人前のスナイパーなのにな。いくら『ヘビーダック』に狙われてるとはいえ、自分の身が守れないこともないだろうに……」
「そうだね。でも、ギルが心配してるのは、きっとまだ僕の怪我が治っていないからだよ。まだ時々は病院に行かなくちゃいけないの。それに、お薬もだよ。僕はとってもいやなんだけど……でも、我慢するの」
「そうか。我慢か。偉い偉い」
と彼の頭を撫でる。ルビーは少し複雑な顔をして見上げるが、ブライアンは笑って言った。
「それじゃあ、ちょっとご褒美だ。散歩に連れて行ってやるよ。おれがいっしょなら奴だって文句は言えまい」
「ホント? 連れて行ってくれるの?」
「ああ」
うれしそうなルビーの顔を見ると、ブライアンも何となく幸せな気分になれた。
「不思議な子だ……」
玄関に向かって駆けて行くルビーの後ろ姿を見てブライアンは苦笑した。

 それから更に数日後。ずっと部屋に篭っていたギルフォートが出て来て言った。
「ルビー、出番だ」
「僕? 一体何をすればいいの?」
ルビーがわくわくして訊いた。
「ピアノを」

その日、チャーリーをはじめとする学生が何人か集められていた。
「こいつらにピアノを聞かせてやってくれ」
「それだけでいいの?」
「ああ」
言われてルビーは解せないままピアノを弾いた。学生達は皆、感動していたが、ギルはそれではだめだと言った。
「次はこの曲を。出来ればこの二つの音を強調して弾いてみてくれ」
ギルが鍵盤を押す。
「いいよ」
ルビーが指示通りに演奏する。
「いいぞ。では、今度はこのリズムを……」

ギルは学生達の様子を見ながらいろいろと指示を出した。ルビーは即座にそれに応える。心地よい響きだった。普通に聴いていれば、一体その曲の何が強調されているのかなどとはわからない。ただ何度も同じ曲が流れているとしか思えない程完成されている。が、明らかに何かが違っていた。それは学生達を観察していれば一目瞭然だった。

「よし。わかった。もういい。ありがとう」
ギルが言った。
「それで、わかったの?」
ルビーが訊いた。
「ああ」
とギルフォートが頷く。

 その夜、ブライアンやチャーリーを交えて、早速作戦会議が行われた。
「今日、学生達に協力してもらった実験でようやく確信が持てたよ。奴は、学生にある周波数の音を周期的に流して、彼らの思考を麻痺させ、ある程度の行動をコントロール出来るような催眠を掛けていたんだ」
「催眠? あのテレビでよくやってるような……。でも、どうやってそんなことが出来るの?」
ルビーが訊いた。
「音という刺激を与えて、トランス状態を作り出すんだ。つまり、頭は起きているのに、体は眠っている。外の音はちゃんと聞こえるし、目で見ている物も伝わる。だが、それに対してどう行動したらよいのかわからない。そんな状態のことだ。逆に、外からの簡単な指示に何の躊躇もなく従ってしまう。それが何なのかわからないまま……。いい事か悪い事かも判断出来ぬまま行動させられてしまう」
「あの時、何の躊躇いもなく、教授室に集められおれ達を襲って来た学生達のようにか」
ブライアンが言った。
「そうだ」
その答えに、チャーリーが身を震わせて言った。
「そのコントロールを受けて僕は爆弾を運ばされたんですね。自分では意識出来なかったとしても、僕は何て恐ろしい過ちを犯そうとしていたんだろう……!」
チャーリーが悲痛な表情を浮かべた。
「チャーリーは悪くないよ」
ルビーが言った。
「悪いのはみんな、あのアヒルなんだ」
「そうだな」
ギルも言った。

「そう。学生達は悪くない。だが、このままでは『ヘビーダック』に操られ、彼らの意思とは無関係に動かされ、おれ達の邪魔をして来る。奴は罪のない学生を盾にし、犠牲者が出てもお構いなしだ」
ブライアンが腹立たしそうに言った。
「そこでだ」
ギルフォートが一同を見回して言った。
「おれは、その学生達の洗脳を解き放とうと思う」
「そんなこと出来るの?」
ルビーが訊いた。
「出来る」
ギルは自信たっぷりに言った。
「ヒントはピアノだ」
「え?」
ルビーがキョトンとしてその顔を見つめる。

「この間、何故チャーリーがルビーのピアノによって催眠が解けたのか徹底的に分析してみたんだ。これを見てくれ」
ギルフォートが細かな数字や記号がびっしり書かれた紙を出して説明した。
「携帯から常に弱い刺激が送り続けられている事が示されたグラフだ」
「なるほど。人間の耳に捕らえられる音域がここからここまでとすると、緑と青で示された波がそれ以外のところを支配しているという訳だ。人間が認識出来る音なんてこれっぽっち。狭いところであがいてるって訳だな。つまりは、機械の方がおれ達人間の耳より正確だってことだね」
ブライアンがルビーのために補足してやる。

「ふうん。それじゃあ、このポツポツした赤い線は何なの?」
ルビーが質問した。
「いい質問だ。他の2本が一定で滑らかであるのに対して、これだけが突出し、バランスを欠いている。これは指令線だ。ある特定の文字列に重ねて送られる特別な音。単調なリズムの中に絶妙なタイミングで仕込まれた指示……。人間の耳には聞き取れないような弱い音だが、神経を刺激するには充分過ぎる。これによって学生達に行動を起こさせていたんだ」
「ったく。何て野郎だ」
ブライアンが毒づいた。
「どうせなら、その頭の良さを別の事に使えばよかったものを……」
「頭? どっかに行っちゃったんじゃない?」
ルビーが言った。
「この間、僕のお人形の頭が取れて見つからなくなっちゃったの。それで、仕方がないから別の人形の頭をつけてあげたんだけど、そしたら、そっちの頭がなくなって可哀想になっちゃって……。仕方ないからまた別のを取ってはめてあげたんだよ。だから、僕のお人形、みんな頭がずれてるの。もしかして、アヒルさんの頭もずれてたりして……」
クックックッと笑っているルビーを見て、一瞬沈黙する一同。

「アヒル……ね。で、奴の頭は何処にあるって?」
ブライアンがギルに訊いた。
「既に発信元のコンピュータは突き止めた。そして、その周期を見出し、催眠を解く為のリズムと周波数も……」
「へえ。ギルって何でもわかるんだね」
ルビーが感心したように言った。
「何でもわかる訳じゃない。たまたまその事に知識があっただけだ」
「たまたま? この短時間にこれだけ緻密なデータを揃えるなんてただ者じゃないさ。大いに感心したよ」
とブライアンが言う。
「フン。煽てても何も出んぞ」
ギルは冷たく言って先の説明に移った。

「それでだ。肝心の洗脳を解く鍵だが……」
とルビーを見て言った。
「わかった。それが『歌の翼に』だったんだね」
ルビーがうれしそうに言い、ギルが頷く。
「そう。あの独特なリズムと周波数が見事に重なっていた。だが、もっと効果を高める方法がある」
「何なんですか?」
チャーリーが訊いた。
「この微妙なバランスのリズムを保ちながら、この二つの音をもっと強調し、よりはっきりとした信号として流す事だ」
「何だ。それなら簡単じゃないか」
とブライアンが言った。が、ギルフォートは首を横に振った。

「それなら確かに簡単だ。だが、実験の結果、単純にその音だけを流してもまるで効果がなかった」
「え? それじゃあ、それ自体が違うって言うのか?」
「いや。そうじゃない。この二つの音とリズムが鍵になっている事は間違いない。だが、その鍵を作動させる為には更なる条件が必要だったんだ。それが、あの『歌の翼に』の曲想そのものだったんだよ」
「どういうこと?」
ルビーが訊いた。
「つまり、あの曲そのものが鍵だったのさ。しかも、おまえが弾く『歌の翼に』がな」
「え?」
「これもチャーリーや何人かの学生達に協力してもらって実験してみたんだ。CDや、他の演奏者による『歌の翼に』でな。だが、どれもよい結果は得られなかった。音はいい。だが、この絶妙な周期的リズムがずれているらしいんだ。僅か0コンマ何秒かの差が致命的だという訳だ」
「それじゃあ、僕がピアノを弾けばいいんだね? そうすれば学生達を助けられるのでしょう?」
「ああ……」

が、ギルフォートの返事は歯切れが悪かった。
「だが、おまえはまだ……」
「平気だよ。僕、もうすっかり元気になったもん」
「しかし……」
「ああ、いいじゃないか。あの学生達を傷つける訳には行かないし、『ヘビーダック』はあくまで学生達を盾にして引き篭もってるし、彼らを何とかしない限り奴に手を出す事も出来ないぞ」
ブライアンが言った。
「だが、問題はそれだけじゃない。もし、ルビーのピアノで洗脳を解く事が出来たとしても、あれだけの数の学生だ。それに効果は人によっても違いがあるだろう」
「なら、もっと厳重な網を張るか?」
「そうだな……」
「逆にその携帯を使って逆催眠電波を流すなんてことは出来ませんか?」
チャーリーが言った。
「いっそのこと、みんな眠らせちゃえば? 僕、子守唄も得意なの」
とルビーも言った。

「そうだな」
先程から何か試案していたギルフォートが言った。
「それはいいかもしれない」
「いいって? 何が?」
ルビーが訊いた。
「教授室のコンピュータにおれがハックする。そして、逆催眠電波を流す。そして、ホールに学生を集めるだけ集めてルビーにピアノを弾いてもらう。それでも漏れた連中を睡眠ガスで眠らせるってのはどうだ?」
「ヒューッ。念には念を入れようってか。いいんじゃないの」
とブライアン。
「ねえ、僕もアヒルさんに会って遊びたい」
ルビーが言った。
「しかし、おまえにはピアノを弾いてもらうという役割がある」
とギルフォートが言った。が、ルビーは聞かない。
「いやだいやだ。僕も行きたい! アヒルさんがどんな奴なのか見たいんだ。プレゼントは直接渡した方がいいでしょう?」
とギルフォートの顔を覗き込む。
「そうだな……」
ギルは躊躇したが、期待たっぷりの瞳で見つめているルビーを見て仕方なく頷いた。
「いいだろう」
「やった!」
ルビーはまるで遊園地にでも行くようなノリでうれしそうに笑った。

「ガスの効果は?」
ギルフォートが訊いた。
「1時間だ」
ブライアンが答える。
「上等だ。学生達が眠っている間に全てを終わらせる」
ギルフォートが言った。既に、ギルが流した偽の情報。『明日の午後3時、学生はホールに集合すること』というメールが教授室のパソコンから送信されていた。
「ルビー、おまえはガスを吸わないように1分間息を止めて曲を弾くんだ。いいな?」
「えーと、1分間っていったら、えーと、アインツ、ツバイ、ドライ……」
と数え始める。それを制してギルが言う。
「60秒だ。ガスは4箇所から噴射され、ホール内を満たす。連中が眠っている間に全ての片をつける。そのためにはルビー、ぜひともおまえの力が必要なんだ。だから、おまえはガスを吸わないように息を止めていなければならない。学生達には何も罪がないのだからな。彼らには眠っていてもらおう」
「わかった。やってみるよ」
ルビーは自分が必要だと思われている事に喜びを感じていた。

 翌日。その日は朝から快晴だった。準備も万端。後は実行あるのみ。
「ところで、ねえ、ギル。アヒルちゃんの超能力ってどの程度なの?」
大学へ向かう車の中でルビーが訊いた。
「心配するな。おまえ程じゃない」
運転しながらギルが応える。
「だよね。それに……」
と何か言い掛けて、ルビーはクククと笑った。横目でちらとそちらを見るギルフォートに、彼は卵を弄びながら微笑む。
「僕は強くなったんだ」
とうれしそうに笑い、それから、少し真面目な顔をして言った。
「それに、アヒルさんには僕やチャーリーの弟にしてくれたことのお礼をたっぷり受け取ってもらわないといけないしね」
「ああ……」

(弟……か)
ギルフォートは亡くしてしまったミヒャエルのことを思い、ルビーを見て、それから、遠い空を見つめた。境のない自由な空の向こうを名も知らぬ鳥が羽ばたいて行く……。

――ギル?

バックミラーに映るルビーの顔が弟のそれに重なる。

――ねえ、ギル

彼は手の中にまだ大事そうに卵を抱えていた。
(似ている)
とギルは思う。がそれは同時に
(似ていない)
とも思うのだ。その個体は、常にこの世で唯一のもの……。代替品など存在しない。だからこそ価値が有り、愛する存在になり得る。
(これは、あの子ではない。ミヒャエルは死んだんだ。壊れてしまったカレイドスコープのビーズを集めても、二度と同じ模様になりはしない……。どんなに似ているパーツを集めたとしても、決して同じ人間になったりしないのと同じに……。ルビーは……おれの知らないビーズを持った未完成の人形だ。彼だけのオリジナルのカレイドスコープを作る。果たして、彼はどんな美しい模様を覗かせてくれるのか? 時が回るその度に模様は変わり、織り上げて行く人生の万華鏡……。ミヒャエル、おれは先へ進むよ。ルビーが織り成す夢の続きをおれはこの目で確かめたいんだ。だから、今日、負ける訳には行かない)
車はツーッと滑るように大学の裏門へ入って行った。

 コンサートは3時ジャストから始まった。ブライアンが病み上がりのルビーの身体を心配してくれたが、本人は強気に大丈夫だと言った。果たして学生達がちゃんと集まってくれるのか? そればかりを気にしていた。

しかし、あの携帯の催眠効果は絶大だった。校内にいたほとんど全ての学生がホールに集まった。
「ねえ、ここで何があるんだって?」
「コンサートだって」
「ここのところずっと体調が悪くてさ」
「おれもだよ。大学入ってから頭痛が酷くてさ」
「レポート書かなきゃなんないのに……」
「何でここに来たのかしら?」
「ホント。訳わかんない。でも、みんな来てるし……。ま、いいか」
学生達がざわついている。
「あ、携帯電話の電源切らなきゃ……」
どうしても来ない学生に対しても、逆催眠電波を流し続ける。

「よし。OKだ」
ブライアンがゴーサインを出し、ルビーがステージに現れる。パラパラと起こる拍手。ブライアンの連絡を受けて、ギルフォートも行動に移る。

ホールでは、今、まさにコンサートが始まろうとしていた。ルビーがピアノの椅子に座り、鍵盤に手を掛ける。一瞬、会場がしんと静まり返る。と、いきなりフォルテの和音が学生達の胸に響いた。そのあまりに強烈な印象に彼らは目を見張り、それからあっという間にルビーが作り出す至福の時へと魅き込まれ、緩やかな感情の波に揺られて夢見る表情に変わった。彼らの心は音楽の海で自由に泳ぎ回る魚のように自由でやさしい気持ちで満たされていた。

「何てきれい……」
「今まで1度も聴いたことのない……」
「涙が……自然に溢れちゃう……」
しかも、その心地よいリズムと音は、彼らの苦痛を取り去った。
「不思議だ。あれ程続いていた頭痛がしない……」
「不快だった何かが消えた……」
ルビーが弾く『歌の翼に』を聴きながら、彼らは皆、一様に夢を見ていた……。

「逆催眠なんか流す必要ないみたいだな」
そんな客席の光景を見て、ブライアンが感想をもらす。
「誰に命令されるでもなく、今ならあの連中、ルビーの言いなりになりそうだ」
と苦笑しつつ、自分もその中に含まれそうだと思ってゾッとした。
美しいメロディーに隠されたリズムとコード……。ルビーは、それを忠実にそして正確に打ち込んで行く……。一つ打つ度に暗号の文字は破壊され、学生達の神経を押さえつけていた楔が外されて行く……。それは天への階段を上るように学生達の気分を高揚させ、快感へと導いて行った。しかし、計画はこれからだ。ホールの4箇所から一斉にガスが噴射される。ルビーは呼吸を止め、ピアノを弾き続ける。

やがて、30秒が過ぎ、学生達の様子が変わる。40秒が過ぎると、半数以上が眠りにつき、残りの学生達も目をこすったり、欠伸を繰り返したりした。そして、50秒……。最後までがんばっていた学生達が次々と眠りに落ちる。しかし、まだ起きている者がいる。60秒……。丁度1分経った。ルビーはまだピアノを弾いている。優雅に美しいその曲を……。しかし、その表情はかなり苦しそうだ。

「限界だ……」
ブライアンが呟く。が、ルビーはまだ戻って来ない。意識のある学生がいる。彼はそれを視認していた。
(まだだ。みんなが眠りにつくまでは止められない)
「無茶だ。戻って来い、ルビー」
ブライアンが囁くように言った。が、ルビーはチラリとそちらを見ただけで席を立とうとはしない。その目が虚ろだ。それでも、彼は弾く手を止めない。少しずつ吐き出した息は、もう底をついて苦しかった。意識がふっと遠ざかる。頭が垂れ、肩が鍵盤に突きそうになっても、曲想は乱れない。
「まったく……。何て執念だ」
ブライアンが恐れをなしたように呟く。と、最後まで意識を保っていた学生がパタッと背もたれに寄り掛かって首を垂れた。もう、ホールの中で目を覚ましている学生はいない。

「ルビー!」
ブライアンは息を止め、舞台に走って行った。そして、まだ弾き続けているその手を止めて言った。
「脱出だ」
しかし、彼は微かにこちらを見ただけで目を閉じ、鍵盤からダラリと腕を落とした。一瞬、眠ってしまったのかと思ったが、ブライアンはさっと取り出したハンカチで彼の口と鼻を覆うとそのまま抱えて舞台から袖へ走った。そして、一気にホールの外へ飛び出して行く。

「ルビー! 起きろ! もう終わったんだ」
「……もう、60秒経ったの? 息をしてもいいの?」
ルビーは口を開け、魚のように何度も酸素を吸い込んでいる。
「ああ。偉いよ。よくやった」
言われてルビーはうれしそうに笑った。60秒どころか、実際には、その2倍近い時間、彼は呼吸を止めていた事になる。が、ブライアンは、今、あえて告げる必要はないと判断した。
「フーッ。ホント、死ぬかと思った」
と、彼は何度か深呼吸するとニッコリ笑って駆け出した。
「じゃ、あとはよろしく」
「まったく、何て奴だ」
風よりも早く姿を消した彼に向かって、ブライアンは首を竦めた。

 一方、ギルフォートは教授室でスミスと対峙していた。
「ほう。君の方から訪ねて来るとは、ようやく賢い選択が出来たようだね」
「賢い選択?」
ギルフォートは眉を顰めた。
「そうとも。私は寛大な男だからね。君のこれまでの言動や行動については全て水に流そう。それでいいかね?」
「いいえ。おれは、あんたが今までとって来た行動や言動を水に流すつもりはないんでね」
「何だと?」
男の顔色が変わった。その手がさり気なく動いて机の下のスイッチに触れる。そこから学生達に指令を送る電波を流しているのだろう。ギルフォートは不敵に笑って言った。

「無駄さ。学生達は、もうおまえの言うなりにはならない」
「何?」
ヘビー ダックの顔色が変わる。
「学生達は目覚めたんだ。もう、まやかしの現実を信じる奴はいない」
「ほう。なかなかやってくれるじゃないか。だが、忘れたか? 私には絶対的な力があるのだ。私は神に選ばれ、力を与えられた者なのだ」
「だから、この世を支配出来るとでも思ったか? 自惚れの湖に沈む愚か者め!」
「貴様、学生の分際で教授であるこの私に何て暴言を吐くんだ!」
男は激昂し、白い顔が赤く染まった。

「フン。アヒルの妄想が膨らみ過ぎて猿の尻に踏まれたような顔だな」
「貴様……! 許さんぞ!」
凄まじい形相で睨みつけると、憎しみの念で作り上げた光の矢を束にしてギルフォートに投げつける。が、それらは全てギルの寸前で消えた。
「そんなバカな……! 貴様も目覚めたというのか? 超能力に……」
「何を驚いている? おれはただの人間さ。別に神に選ばれたくもない。もし、選ばれたなら、それ相応の責任ってものも付いて回るからな。おれは真っ平さ。だが、あんたはそういうものが大好きみたいだからな。別に止めはしないぜ」
「何をくだらない事を言ってる?」
「頭のいい教授にも理解出来ない事があるのか? お笑い草だな」
「貴様……!」
2度目の攻撃……。しかし、それもギルフォートは身じろぎ一つせずに粉砕した。
「バカな……! 信じられない……」
動揺する男の足が左右にぶれる。
「どうした? アヒルちゃん。赤くなったり青くなったり随分忙しいようだな」
「くそっ! 止めを刺してやる!」
と男の全身が輝いて光の弾丸が炸裂した。一瞬、視界の全てが白い闇に包まれ、何もかも分裂して行く原子世界の幻が見えた。

「ハハハ! どうだ? 貴様ら何の能力もない人間など、ただの虫けら程の価値もない。死ぬも生きるも全て私の手の平の上にあるのだ」
「フフフ。バカじゃない?」
突然、声が割り込んで来た。
「何だと!」
光の分裂が収まると、その中から新たな人影が現れた。ルビーだ。無論、ギルフォートもその背後にしっかりと控えている。

「あれれ? ねえ、これがアヒルさんなの? 全然可愛くないよ」
ルビーが不満そうにスミスを指差す。
「そうだな。アヒルというよりは白豚か」
ギルが応じる。
「ちがうよ。そんなこと言ったら豚さんが可哀想でしょ? 僕ね、豚さんも好きなんだ」
と抗議する。

「貴様……! 死に損ないのカス人形め!」
スミスが吼えた。
「ねえ、あれは何を言ってるの?」
「さあな。いくらおれでも動物の言葉は理解不能だ」
「フフフ。ギルにも理解出来ないんじゃ、僕にはわからない筈だ」
とケラケラ笑うルビーに向けて、スミスは光の矢を次々と飛ばした。当たれば鋼鉄でも貫く念力の矢だ。しかし、ルビーはこともな気にそれらを払い、部屋の中をキョロキョロと見回している。

「なあんだ。ここ、本ばっかりでつまらないや。中は全部文字ばっかりだし……。ねえ、もっとまともな絵本はないの?」
ルビーはその辺に積んであった本をペラペラめくり、気に入らないと構わず放り投げた。
「やめろ! 汚い手でゴールトン先生の本に触れるんじゃない!」
スミスが大事そうに拾い上げようとしたその本を、ルビーはとんと爪先で蹴飛ばす。
「汚くないよ。僕、ちゃんと手を洗ったもの」
「黙れっ! この薄汚い劣悪人種のくたばり損ないめ! 死ね!」
スミスは最大のエネルギー波を二人に放った。が……。光の中で余裕の影が揺らぐ。スミスはゼイゼイと息を切らして喘いでいた。

「フフフ。おじさん、さっきから攻撃が単調過ぎるよ」
ルビーが楽しそうに笑う。
「バカな……。こいつの能力は見切っていた筈……。計算によれば……」
「計算? それって一体いつのこと? 僕は生まれ変わったんだよ。アヒルさん」
ルビーの声が部屋のあちこちから反響して聞こえる。狂った人形の笑い声のように……。
「化け物め……!」
スミスは机の引き出しから銃を取り出すといきなり発砲して来た。それをルビーのシールドが防ぐ。

「あれ? おもしろそうな物持ってるじゃない? 僕もあれで遊びたい!」
とギルの方を向いて言った。
「それじゃあ、アヒルさんに貸してもらいなさい」
ギルフォートが言った。
「わかった。ねえ、そのおもちゃ、僕にも貸してよ。僕もそれで撃って遊びたい」
ルビーはニコニコと近づくと、有無を言わさず銃を取り上げた。
「や、やめろ!」
慌てて逃げ出そうとする男の背中でルビーが言った。
「そのドアは開かないよ。ここには結界を張ってるんだ。多分あなたの力では破れない」
「何だって? 一体何て事を……」
「何て事だって? あなたが今までやって来た事を思い出すがいい。あなたは一体何をした? 何の罪もない大勢の人や学生を殺し、僕の事も殺そうとしたんだ」
「劣悪人種だ。滅びるべき者達を淘汰しただけだ。私は自然の大いなる意志を尊重し、そのための手助けをした。私はいい事をしたんだ!」
「滅ぶべき物だって? 僕やチャーリーの弟が劣悪人種だって言うの?」
「決まっている! 白くない者は悪だ! 生かすべき価値のないくだらない……」
男が言い終わらないうちに銃弾が男の足元に着弾した。
「僕、おまえ、嫌い! ねえ、ギル、こいつを撃ってもいいよね?」
「ああ。気の済むようにしろ」
「わかった」
逃げられない男に向かってルビーは微笑み掛ける。
「それじゃ、行くよ」
ルビーは真っ直ぐ男に銃口を向けた。
「射撃は正確に左胸を狙うんだったね」
言うとルビーはスッとトリガーを引いた。が、弾丸は逸れて右手の甲に当たる。男はヒッ! と悲鳴を上げた。

「あれ? 外れちゃった。それじゃ、今度は頭を狙ってみようかな?」
バン! と発射された弾はまたしても逸れて、今度は左足首をかすめた。
「下手くそめ!」
男が強がりを言った。
「じゃ、今度はそのおしゃべりな口を狙うよ」
が、またしても弾は左手の前腕に……。
「アハハハ。なかなか当たらないもんだねえ」
ルビーはさもおかしそうにケラケラと笑った。
「貴様っ! わざと外して……」
スミスは青ざめた。ルビーはトリガーを引く瞬間、わざと照準をずらして撃っていたのだ。しかも、意図的に別の狙いにヒットさせて……。男はそれに気づいてゾッとした。しかも、彼とて黙って撃たせておいた訳ではない。シールドごと撃ち抜かれたのだ。

「今度は止め」
とルビーが言って真っ直ぐ撃った。が、弾が出ない。ルビーは何度もカチカチと引き金を引いたが、弾がないのだとわかるとつまらなそうにポイと捨てた。
「チェッ。せっかくおもしろくなって来たところだったのに、弾くらいちゃんと用意しておいてよ」
と文句を言う。

「くそっ! この性悪ガキのデク人形め! 減らず口を叩きおって……!」
と怒鳴るスミス。
「いっその事、こいつで焼き鳥にするってのはどうだ?」
その間にギルフォートがブラスターを構え、ボッとそいつに向けて火炎を噴射した。男はぎゃっ! と悲鳴を上げてバタバタと暴れる。強力な炎が男の髪や服を焦がしたのだ。が、その火はすぐに消し止められた。
「ダメだよ。そんな物食べられないもの。僕ね、デリケートだから、すぐにお腹を壊しちゃうの」
「そうだな」
と二人が話している間もスミスは何とかそこから逃げ出そうともがいていた。

「僕、こっちの方がいいな」
と、ルビーはアタッシュケースの中のマシンガンを取り出すと男に向かって連射した。男はピョンピョン跳びはねて逃げ回る。
「アハハ。見て! おもしろい! アヒルのダンスだ。かわいいね」
「ふ、ふざけやがって……!」
男は遂にキレたらしく、全身から炎を吹き出している。
「あれれ? 今度は炎の舞いだ」
とルビーが喜んで連射する。しかし、弾はただ吸い込まれるだけで何も変わらない。ルビーはポイとマシンガンも捨ててギルに言った。
「もう飽きちゃった。好きにしていいよ」

ギルが拳銃を構えるとルビーはホイと今までずっと持っていた卵をアヒルの目の前に放った。その卵をギルは撃った。固い卵が割れて欠片が弾け飛ぶ。そこにルビーが風を起こしてアヒルに纏わり付いていた炎を払う。弾丸は男の心臓を貫いて、背後のスクリーンを粉々にした。血がドクドクと流れ、男は、信じられないという顔でこちらを見た。そして、崩折れる瞬間、ギルがルビーに訊いた。
「こんなおもちゃが欲しいかい?」
「いらないよ! こんな黒くて汚い『アヒル』なんて……」
ルビーはそう言ってククッと笑う。男は僅かに唇をヒクつかせ、それからゆっくりと床に倒れた。
「ハンプティーダンプティー……砕けちゃった卵……死んじゃったアヒル……みんな同じ黒い闇の向こう側……二度と元には戻らない……」

 それから、ルビーはホールに戻り、何事もなかったようにピアノを弾いた。暗黒の翼は閉じられて、自由な空を飛ぶ白い翼をいっぱいに広げて……。学生達は目を覚まし、コンサートを満喫し、帰り道には皆、晴々した顔をしていた。ブライアン達が学生達に呼び掛ける。
「重大な欠陥が見つかった為、携帯電話を回収します。代わりの携帯は準備でき次第、配布しますのでご協力お願いします」
学生達は次々と携帯を回収箱に入れた。
「それにしても、コンサートよかったね」
「うん。特に、あの『歌の翼に』が心地よかった」
学生達は何も知らず、まだ夢心地で家路についた。

 そして、数日後。ルビーとギル、それにブライアンとチャーリーも交えて『機関車ジョミー』の公園に来た。ルビーとチャーリーがご機嫌で機関車に乗せてもらっていた。それを見てブライアンが言った。
「いいねえ。若いってのは……。あんな事で喜んじゃってさ」
「おまえは若くないのか?」
「何だ、ギル。おまえも乗りたかったのか? なら、乗って来いよ。写真撮ってやるから……」
「冗談じゃない」
「それとも、エスタレーゼが来なかったから拗ねてんのか?」
「違う! おれは、ただ……」
と言い訳するギルを無視して、ブライアンが大声で言う。
「おーい! 今度はギルお兄ちゃんがいっしょに乗ってくれるってさ」
「おい、よせよ。おれは言ってないぞ」
怒るギルを引っ張って、ブライアンは乗車口に近づく。
「ホント? 早く! 早く!」
ルビーが笑顔でその手を引いた。

――お兄ちゃん

その空の向こうで、一瞬ミヒャエルが笑ったような気がした。
「出発進行!」
ルビーも笑う。青空に響く警笛にシャッター音が重なる。
彼は、すっかり卵の殻から出て、本当に生まれ変わったのかもしれない……。

Fin.